取っつき安い人と、取っつき難い人の差は何なの?其の①対人関係

さっそくだがタイトルの答えは、任意の人の言動や行動を当事者が理解できるかできないかの差である。取っつき安い人とはもちろん理解者の多い人間となる。

なんだか分かりづらい。

『視点はどこにあるのか』と『誰から見てそれがどのように感じるのか』の2点を組合わせた答えなのでややこしいのは当然。

少しこめんどくさい話にお付き合い頂けます?すみませんね。

仮に、視点の置き場所をこのブログを読んでくれている貴方と特定して話を進める。

この世界は人の両目の数だけカメラがあって、それぞれに世界を切り取った映画がリアルタイムに脳内で上映されているようなものだ。

ここで言う世界とは私達の生きている現実世界。

日々の出来事に感動して泣いてしまったり大声で笑ったり、刹那の間も止まらずにフィルムは回る。

ただし、劇場に観客は貴方一人しかいない。

他人と同じ映画(世界)を見ても、相手の心情は察するだけで本当の心うちを理解しることはできない。なぜなら貴方の映画の中では、相手(他人)は登場人物の一人としか認識できないからだ。表情を見て曖昧に気持ちを推測するしかない。

同じように相手(他人)の映画の中では、貴方がその他大勢のエキストラになっている。

これが視点の置き場所。ようは世界の中に置かれた任意の一点である貴方がカメラマンであり、観客であり、この世の認識の全てだ。

よって他の誰かの気持ちを100%(30%くらいならいけるかも)理解することなど観客の貴方には原理的にできない。

気持ちを共有するだとか、誰かの身になって考えてみようなどと学校の先生はよく言う。残念だがそれは上記の理由により不可能だ。

当事者にしか感情の高鳴りは聞こえない。

良識をもって規律をまもり和を乱さないようにしましょう。と言うのと、思っている気持ちを無理やりねじ曲げて従えと言うのとではストレスの溜まり具合が違うよね、と言えばいいのかな?

視点は常に貴方だけのものであり、認識者の中にしかない。

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また、『誰から見てそれがどのように感じるのか』に関しては、一つの事実に対して人の数だけ複数解の真実があるという意味。

スポーツの勝ち負けで、勝ったチームのファンと負けたチームのファンでは試合の印象が違うことがある。

好プレーでいい試合はこびだったのに、奇跡の大逆転で負ける。

さんざん押されっぱなしで後のない状況でも諦めず奇跡の大逆転で勝つ。

同じ試合を両チームの視点を変えて書いてみたがここまではあくまで視点の違い。

『誰から見てそれがどのように感じるのか』は勝ったチームのファンが喜んでいるからいい試合だったのか、負けたチームのファンが悔しがっているからダメな試合だったのか、判断する貴方や他人の受け取り方しだいでその試合(事実)の印象が180度変わってしまうことにある。

試合(事実)の内容は変わらないのに、貴方の中ではいいものにも悪いものにもなりうる(真実)。

他人の中の真実は貴方とは違うかもしれない。

だから同じく事実を語るにしても齟齬や誤解が生まれる。

そしてこの2つ、『視点はどこにあるのか』と『誰から見てそれがどのように感じるのか』は同じ意味のものではないのに、人間は主観的な生き物だからしばしば混同してしまう。

ピントのぼやけた映像(世界)を人は嫌い、無理やりに整合性のとれた真実へ心を修正する。

 

取っつき安い人と、取っつき難い人の差の説明をしているのに、相変わらず分かりづらい。スタートでつまづいてしまった。アウツ…。